二歳の男児。
我が家での晩御飯の後、ゆ?ら、ゆ?ら、と言いながら、身体をゆっくり左右に振る。

彼はつい最近、やっと言葉を話すようになった。
話す言葉もどんどん進化する。

生まれてからずっと彼を身近で見てきているが、初めて聞く言葉と仕草に、「どこで覚えたの?」と聞くと
「ほ、い、く、え、ん」と、はっきり答える。
ゆ?ら、ゆ?ら、がお気に入りのようである。

最近は、なんでもかんでも「コレ、ナニ?」の連発。
吸収力も目を見張るものがある。

成長過程では、ごくごく普通のことだが、自分の子育ての時は全く余裕がなく、観察もできていなかった。
ヒトの成長を間近で見ていると、かなり興味深く面白いものがある。

彼よりも1年7ヶ月先に生まれた、年子のお兄ちゃんとケンカが始まる。
プラレール(電車とレールのオモチャ)に夢中。
だが、遊び方に微妙なズレがある。
こだわりが、衝突する。
お兄ちゃんが弟を叩く。
弟は泣き、父親に訴える。
そのうち、兄を叩き返す。
が、やはり兄が圧倒的に強い。
弟は泣き崩れる。
兄は強気。
自分の遊びルールを強制する。

弟を叩いたことで、父親に諭される。
この父親が、何故、叩いて自分の主張を通そうとする兄が良くないのか、これまた優しく丁寧に、冷静にわかりやすく、兄に言って聞かせる。
兄は一時納得するも、また兄弟ゲンカが、始まる。
母親はノータッチ。テキパキと帰る支度を始める。
「いつまでも遊んでたいなら置いてくよ!」
うわぁ?ん、兄弟二重唱。
私は外野で様子を見学。

家庭の外で、社会でもこういうケースに、これから度々遭うのだろうと想像する。
まさに、家庭内教育は、子供の基礎を作るのだなあと、しみじみ思う。

親はどこまで干渉するか。
わたしは祖母なので、たんなる緩和剤、クッションになればいいと考えるが、さして役にも立たない。


週の何日か、不得意な料理で、縁の下の小さな小さな隅の穴から、ささやかに支える程度だ。
頑張りすぎると、つい見返りが欲しくなる。
こんなに一生懸命しているのに、当たり前のように利用して、用が済んだら捨てる気?なんて、自虐的にもなりかねない。
無理はしないこと、それは自己防衛策でもある。

自分だって、祖父母に支えられて育ってきた。
子供たちも、おじいちゃん、おばあちゃんに支えられて育ってきた。
祖父母たちは、なんの見返りを要求したか?
なにも要求せずに、静かにこの世を去っていった。
お礼の言葉のひとつも、わたしは掛けただろうか。

感謝の気持ちを伝えなかった後悔があるとするなら、その気持ちをそのまま順送りに、孫たちに子育てサポートで返したい。
そんな大それた仰々しいものではなく、孫たちと接することができる機会に感謝したい。

姑が言っていた。
「孫の世話をさせてもらえて、ありがたいことやで」

今頃になって思うのは、かなり昼行灯であるが(わたしの主要キャラでもある)
見返りを求めず、一生懸命助けてくれたお年寄りたちに改めて感謝したい。

上を見て、下を見て、自分を見て、
過去を顧みて、現在を知り、将来を見つめる。
自分は、大きなものの、流れの中のひとつなんだと感じる。